土呂久の集落を車でかけぬけると、祖母・傾山系の谷間に築かれた石垣とそこに開かれた田畑の美しさに感動します。急ぎ足で過ぎると、あまりに多い無残な廃屋に目がとまり、少子高齢化の深刻さに胸が痛みます。思索しながら歩くと、谷のあちこちにまつられたお堂や社をのぞきこんでは、昔からつづく山の信仰の歴史に思いが飛んでいきます。
集落の真ん中に鉱山がありました。江戸時代は銀山として栄え、大正中期から昭和中期まで40年にわたって猛毒の亜ヒ酸を製造し、労働者と住民多数をヒ素中毒で苦しめた鉱山です。環境省は1973年に、土呂久に多発した慢性ヒ素中毒症を水俣病、イタイイタイ病、大気汚染による呼吸器疾病につぐ「第4の公害病」に指定しました。
土呂久は<公害を生き延びたのに過疎で衰亡しようとしている>という稀有な特徴をもつ山の集落です。宮崎県が2017年に土呂久を教材にした環境教育を推進し始めてから、中学・高校・大学の生徒・学生・教師らが土呂久見学にやって来るようになりました。土呂久歴史民俗資料室の川原(客員教授)は、学校の求めに応じて現地見学の案内に立ち、研修コースの確立につとめています。
ここに紹介するのは、宮崎大学生と土呂久歴史民俗資料室担当の職員が、2022年8月に土呂久現地を訪れたときの写真と、それをもとに考えた研修コース案です。
土呂久公民館の前から土呂久見学に出発した。
集落の北を東西に林道が走っている。林道にかかる惣見大橋から集落を見下ろした。
惣見大橋の上手に小さな滝がある。秋には滝を囲んで紅葉するモミジが鮮やかだ。
元猟師の佐藤幸利さん宅で、捕獲したシカの角を見せてもらった。
幸利さん方には明治の終わりに捕獲したツキノワグマの手が保存してある。クマの手で妊婦のお腹をさすって安産を願ったという。
佐藤孝輔さんは150頭の牛を肥育している。「土呂久の空気はおいしい。水はきれい。青草はイキイキと育つ。牛養いに最適」と、現在の土呂久の環境のすばらしさを話してくれた。
2022年10月に鹿児島で開かれた全国和牛能力共進会で、孝輔さんが育てた牛の肉は「日本一おいしい」と評価されて内閣総理大臣賞を受賞した(写真は別の牛)。
土呂久の田んぼの中には大きな岩がでんと座っている。
上面が平らに削られている岩を「石舞台」と呼ぶ。お昼を食べて休憩させてもらった。
かつて集落の真ん中に鉱山があった。佐藤喜右衛門さんの家は亜ヒ焼き窯から100メートルの近距離。ヒ素をふくむ煙に襲われた家族7人は、呼吸器や肝臓を侵されて死んだ。土呂久公害の悲劇の象徴だった屋敷は取り壊され、跡地に杉が植えられている。
一家7人が死に絶えた喜右衛門屋敷(1972年撮影)。
土呂久公害訴訟の原告団の筆頭に名前を連ねたのが、子どものころから呼吸器、循環器、感覚器などの病気で苦しんだ佐藤鶴江さん。晩年に一人で暮らした廃屋が、鉱山敷地と接したところに残っている。
土呂久鉱山が閉山する1962年まで、大切坑(おおぎりこう)から硫ヒ鉄鉱などの鉱石を掘り出していた。高千穂町の職員に案内してもらって坑内に入った。
坑内に赤茶けた鉱毒のようなものにおおわれた場所があった。「バクテリアの一種だろうが、正体は不明」ということだ。
鉱山跡を過ぎて南に歩いていくと、路傍に「唵婆嶽(おばだけ)神社」が立っていた。祭神は、豊玉姫命(とよたまびめのみこと)と日子穂々出見命(ひこほほでみのみこと)。祖母山にまつられている神と同じだ。江戸時代、この神社は「折原祖母宮(おりわらそぼみや)」と呼ばれ、祖母山の下宮八社の一つに数えられていた。
さらに南に行くと、農家の畑の隅に薬師堂が立っていた。お堂の中をのぞくと、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将の15体の仏像がぎっしり並んでいた。
土呂久見学に参加した学生と資料室担当の職員で「土呂久研修コース」を考えた。