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「常に今まで以上を目指す」限定をせずに垣根をとっぱらって

2021.6.21
株式会社共立電機製作所/株式会社共立電照
米良充朝さん

さて問題です。

新国立競技場、歌舞伎座、新豊洲市場、東京都庁。誰もが一度は耳にしたことのある場所。そんな建物に納入実績を持つ電機メーカーが宮崎にあることをご存知でしょうか。

高岡町にある宮崎市ハイテク工業団地の丘の上、満開の桜に彩られた天ヶ城が壁面いっぱいに描かれた「三高テクノ工場」。この工場から全国に配電盤・キュービクル・道路灯・トンネル灯・ソーラー街灯・バッテリー式投光器・LED蛍光灯など様々な製品を送り出している共立電機製作所の副社長、米良充朝(めらみつとも)さん。全国にマーケットを広げていくきっかけとなったのは、阪神淡路大震災の時でも倒壊しなかった配電設備だったと振り返ります。

「お客様からの信用をいただけるのは、ひとえに『品質』。そしてどんな時も『納期厳守』を社員一丸となって続けてきた」ためだと語ります。平成29年に県内で第一号となる企業主導型認定こども園を開園し、平成30年に共立電機製作所と共立電照の副社長に就任、令和2年度には日本商工会議所青年部の第38代会長を務め、今後、海外への事業展開も推し進めている米良さんには、どんな軌跡があるのでしょうか。

明日が来ることが嫌だった中学時代。恩師は家庭教師

今の米良さんからは想像できないのですが、実は中学2から3年のころ、米良さんは学校に行かずひきこもりに近い状態でした。そんな時、在学していた学校の先生から、卒業生で当時大学生の家庭教師を紹介してもらったそうです。飾らない、アニキのような存在の先生。その時あったことや男子校生活での不安を打ち明けると、「大丈夫だから」と声をかけてもらいました。

「いろんな話をしていくうちに自分の中に聞いてもらう余地というようなものができて、ぐちゃぐちゃ思っていたことがスッと流れた。明日が来ることがプレッシャーで嫌だったのが、先生が来てくれるということが、自分の生活の中で明日を迎えられる活力になった。その先生のおかげで、思春期というか、暗黒の時代を乗り切らせていただいた」と、米良さんは語ります。

仲間との絆を深めた学生時代。自分の言葉で語ることを身につけた。

中学時代のダークサイドがあり、勉強ばっかりの男子校生活を経て、一浪して迎えた東京での大学生活。入学後は、ミスコンを主催するイベントサークル、いわゆる飲み会が多いサークルに所属しました。サークルは外から見るとチャラいのですが、中はガチガチの縦社会。米良電機の創業者である祖父、軍人気質の祖父に育てられ複数の会社を経営しながら、スカイネットアジア航空を創業した父。二人の創業者が居て、何をするにも家内決裁が必要な家庭で育った自分の気質に合っていたのだと思うと、米良さんは振り返ります。

「学生時代にがんばったことは友達と遊ぶこと。そこで人間関係を勉強させてもらいました。ある大人から『大学生は無責任な大人でいいな』と言われましたが、それこそが学生の特権。渋谷の居酒屋で何を話したのかは覚えていませんが、仲間との関係だけは深まっていきました。そのネットワークが今では関東を中心に日本全国に拡がっています。」

多くの人との付き合いからたくさんの情報を吸収して、情報を自分の中で咀嚼して自分の言葉に組み替えていくことが大事だと、学んだそうです。また、友達同士のやりとりの中で直接本人と話しをすることの重要性も。

「正しく伝える、正しく受け取る。フワフワ浮いている言葉ではなく腹から出た言葉を、咀嚼して、自分の言葉でお伝えして、間違いなく酌み取ってもらう。そういうやり取りは、就職活動の中でも必要になると思いますし、自分の知らなかった一面を見つけ出すきっかけにもなっていくと思います。」と米良さん。

就職氷河期に実感した親のありがたみ

人と話すことで癒やされた経験から心療内科やカウンセラーの道も考えました。しかし米良さんの就活時期は、大手企業も採用をストップするような就職氷河期の真っ只中。米良さんは、働いていない自分が毎日ごはんを食べていけていることがすごいことだと改めて気づき、親のありがたみを実感した、と言います。就職について、いろいろ考えましたが、最終的に米良電機に育ててもらった恩返しをしようと考えるようになったそうです。

父に相談したところ、内勤で経理を任せられる人材が欲しいという要望があり、大学卒業後に税理士専門学校で半年学び、会計事務所で6年間勤務。その後、平成18年に米良電機産業に入社し、勤怠管理や資材管理、経理中心の内勤を担当しました。

平成26年から会社の方針で外部展開が始まり、橘ホールディング(ボンベルタ)の社長に就任。B to Bの世界から一転、小売りの世界へ。不特定多数を相手にすること、最後に使われる方が買っていくこと、多岐にわたる商品を取り扱っていること、何もかも未経験の百貨店の業界。教科書のない中、一つずつ教えてもらいながら進んでいったそうです。

学んだことは「常に現場」。社長就任の記事を地方紙一面に顔写真付きで掲載いただいたので、どこかで誰かが知っていてくれることを常に意識しなければならなくなったそうです。それまでの内勤とは違いどこでもが現場に。「情報には敏感になる。機を見て敏に対応するよう心がけるように変わった」と米良さんは振り返ります。

宮崎初!日本商工会議所青年部(日本YEG)第38代会長を経験して

日本商工会議所は、全国に515カ所あり、商工業の発展に寄与する団体として渋沢栄一氏が設立しました。経済3団体の中で唯一の青年部が、全国3万4千人の会員から成る日本YEGです。令和2年度に一年の任期で就任するも、世界がコロナ禍に見舞われた時期。会って商売をする、という前提が覆された中での活動。日本YEGではいち早くリモートシステムを全国各地で導入していたのでWEBへの移行は比較的スムーズだったそうです。

全国415の単会の会長とWEB面談。北海道から宮古島まで全国の日本YEGトップの方々のお悩みを聞かせていただいたことで構築されたネットワークは、学生時代とは違う新しい財産となりました。年度末の3月25日、日本YEG会長として初めて、首相官邸で菅総理を表敬訪問して活動内容や今後の取り組みを報告、首相から若い人達へのエールをいただいたことは、日本国民としてのアイデンティティにつながる経験となったと米良さんは語ります。

宮崎から全国の代表になるという経験を通して、自分がどれだけ発揮できるかが重要であるということ、自分の培ってきたバックボーンを持って勝負することは、地方も都会も関係なく充分できる、ということを実感されたそうです。

「コロナが技術を促進した面もあり、リモートでもいろいろなことができるようになりました。場所にとらわれず繋がれる時代になりました。どうせ無理だからと頭の中で限定しないでほしい。無駄だとか、時間とお金がもったいないと考えるかもしれませんが、年を取れば取るほどその無駄はとれなくなります。今払える無駄があるならば今払っていただいて、ぜひ限定しない頭の中を作っていただきたい。そうすることで、それに伴った行動と習慣を身につけてほしいと、先に出ていった人間として思います」と米良さんは語りかけます。

これからの夢

「100万人に愛され、100年続いて、100億優に売り上げる会社であり続けよう」と米良さんは社員に声を掛けているそうです。

「いい時も悪い時もあるのが人生。国籍や年齢、障がい者雇用も含めて多様性のあるしなやかな終身雇用をめざす会社でありたい。さらに、宮崎といえば共立と言われる、地域に根ざした大企業に名乗りを上げていきたい。そのためには日々大事にしてきた『技術』と『納期を守る』ということと、今まで以上の川上の技術をつかみにいくこと、今までお世話になった方々に決して疎遠がられないように、今までも大事にしながら今まで以上を目指していきたい」と、米良さんは力強く語ります。

米良さんからのメッセージ「常に今まで以上を目指す」

今のための今までであり、今からのための今である。常に全力の今を刻み続ける我々でいましょう。

「若い人の可能性は無限。たぶんこうやって言われると鬱陶しいと思います。僕も学生のころそう思っていました。ただ、今になって、本当に無限だなぁと思っています。限定をせずに、垣根をとっぱらって、ちょっと冒険をしたほうがいいのかなと思えるんだったらぜひ冒険してみてください。今まで以上を目指し続ける志。この志だけは常に高く持っていただきたい。自分をどういう自分にしていくのか。年齢も性別も国籍も問わずやっていける時代に変わってきました。宮崎にいながら宮崎の頼れる大人を活用して、今まで以上を目指していってほしいと思います。どんな今であっても今まで以上を目指していけるなら、明日は怖くない。そういった気持ちを持ち続けながら、宮崎経済を盛り上げる同士としてまたどこかでかお会いできればと思います。」

※このインタビュー動画は、宮崎大学地域教育プログラム「地域キャリアデザイン」で配信中です。

文:清田 忍 Kiyota Shinobu