宮崎大学
お知らせ・広報

心臓病から命を守る「最後の砦」となる大学病院を目指して
渡邉 望(わたなべ のぞみ)さん

2022年3月22日掲載

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渡邉 望(わたなべ のぞみ)さん

医学部機能制御学講座循環動態生理学分野 教授
医学部附属病院ハートセンター 副センター長

20220323_001.jpg宮崎市出身。宮崎市中心部にある、戦後から三代続く皮膚科医一家の長女。
宮崎市立小戸小学校・宮崎大学教育学部附属中学校・宮崎県立宮崎大宮高等学校を経て、宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)に進学。大学卒業後、同大学附属病院内科に研修医として入局。県立宮崎病院にて勤務後、1999年から川崎医科大学(岡山県倉敷市)へ。吉田教室における心エコーラボの立ち上げから参画し、臨床・研究両面での研鑽を積む。助手、講師を経て心血管画像解析室長となり、国内外で活躍。その間に国際的な業績が認められ、FACC(アメリカ心臓病学会特別会員)に最年少かつ日本人初の女性として選出された。
その後、2009年の出産をきっかけに家族のいるふるさと宮崎にUターン。県立宮崎病院に非常勤医師として復職し、2014年より宮崎市郡医師会病院での勤務を経て、2021年4月に本学医学部機能制御学講座循環動態生理学分野の教授に就任。
2018年からは、アメリカ循環器学会AHA: American Heart Associationの公式ジャーナルである'Circulation : Cardiovascular Imaging'のAssociate Editorを務めている。
現在は、中学生の長女を育てる母として、研究者として、医学部教員として、医師として多忙な日々を送る。毎朝の弁当作りはエネルギーがいるが、喜んでくれる可愛い娘の笑顔が元気の源。
娘の好物はぶりの竜田揚げ。毎朝下味をつけるところから料理する、「割とまじめ」な主婦の顔を持つ。
趣味は3歳の頃から始めたピアノで、自宅にはグランドピアノがあるが、最近は多忙すぎてピアノを弾く時間が無いのがちょっとした悩み。子供のころに観た映画「時をかける少女」で原田知世の袴姿にあこがれ、高校・大学は弓道部に所属、部活一筋に励んだ。

~ 宮崎市中心部の繁華街「ニシタチ」で育つ ~

宮崎市の夜の街といえば「ニシタチ」ですね。といっても私の幼い頃は、ニシタチという呼び方はしていなかったと思います。八百屋さんやお肉屋さん、乾物屋さんが軒を連ねる昭和時代の高松通商店街。少しわき道に入ると、田舎ながらのネオン街が続き、小さなスナックの前に大人たちがうろうろしている、そんな界隈でした。客引きが禁止される前は、通り沿いに立った黒いスーツ姿のお兄さんたちとおしゃべりしたり、からかわれたりしていましたが、不思議と怖いとは思いませんでした。商店街にはいつも買い物籠を持ってお使いに行き、「バラ肉200グラム下さい」というと、紙に包んだお肉をハイ、と渡されていましたから、今思えばSDGsが普通の時代だったのですよね。

夜中まで酔っ払いが叫んだり、男女がケンカしたりする声が聞こえ、近所のお店のカラオケ、いかがわしいお店の宣伝カーがダンシング・ヒーローを大音響で鳴らしながら一日何十回も行き来をする環境の中で日常生活を送り、もちろん受験勉強もその環境下でやっていました。そのような中で育ったので、今でも騒がしい中で人と話をしながらでも手と頭を動かすことができます。聖徳太子にはかないませんが、ちょっとした特技かもしれません。そう言えば、夜中や明け方まで仕事をしていても、翌日夕方まで普通に元気でいるのも、いつの間にか鍛えられた特技です。研修医時代から鍛えられた(壊れた)体内時計に加え、時差のある海外と夜中までやり取りすることに慣れてきたからなのでしょうか。しかし、もう若くないので、近頃はあまり無理しすぎないように自制しています。

さてニシタチの話に戻ると、子供のころに出会った周囲の人々には様々な人間模様があり、その学区の同級生にはいろいろな家庭の事情や、バックグラウンドがありました。両親が夜の仕事で留守だからと、寂しくて遊びに来る友達がいたり、家庭内に問題があった友達が駆け込んできて、私の母が助けていたりもしました。でも、子供同士はあまり特別には思わずに過ごしていたし、同級生たちはそれぞれの状況で逞しく明るく生きていて、それぞれの生き方で社会を担っています。私もその中の役割として、医師として生きているという感覚です。今でも街で会って、「よう!」と声をかけてくれる友達もいます。決してお上品な環境ではありませんでしたが、さまざまな事を子どもながらに学び、感じてきたことが、医師として働く中で、目の前の患者さんの置かれたそれぞれの立場や状況を理解し、寄り添いながら診療や治療を行いたいという気持ちの源になっているのかもしれません。そして、この街で40年以上開業医として地域の患者さんたちの話を親身に聞き、心砕いて寄り添っていた父の姿が、今の自分の中心に根付いていることを今になって改めて感じます。

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写真:実家のある高松通商店街。コロナ禍での、ニシタチ応援の提灯が灯る。
この通りで2歳からレジデントまでの時を過ごした。

~ 医学部への道:宮崎医科大学の平成2年「ユニーク入試」 ~

私は平成2年(1990年)に当時の宮崎医科大学に入学しましたが、その年は、共通一次試験に代わって大学入試センター試験が始まった年でした。さらに、宮崎医科大学では、大規模な入試改革により、高校時代の活動実績を評価するいわゆる「ユニーク入試」が導入された最初の年でした。

学校の教科では文系科目が得意で、医学部受験で重要となる数学や理科はてんで苦手な文系女子でした。英語は特に好きで、語学の道も真剣に考えはしましたが、やはり幼いころから見てきた父の姿に自分を重ねるようになり、また高校担任からも医学部受験を進められ、3年生でなんとか苦手科目を克服すべく頑張った結果、宮崎医科大学に合格することができました。ユニーク入試の一期生という事で、一体何を基準に選抜されるのかわからない賭けのような二次試験でしたが、同級生の中には、甲子園出場校のピッチャーや、花園に行ったラグビー選手、水泳日本一や柔道日本一など、すごい面々がそろっていました。西日本医科学生体育大会では毎年総合優勝し、「宮崎医科体育大学」という、誇らしいのかわからないような別名でよばれていたスポーツ黄金時代でした。私は期待通り弓道部に入部し、先輩たちに可愛がられながら楽しく練習に励み、在学中の大会では団体戦・個人戦優勝の他最優秀射技賞も受賞するなど、好成績を収めました。個人戦優勝を決める最後の一矢を放った瞬間の光景は、的の音、周りの大歓声と共に今でもはっきりと思い出します。なんにせよ、このユニーク入試一期生として医師人生の扉を開いてもらったことが、その後の私の人生につながったと思うと、入学試験での選抜の責任は重いなあ、と、選抜する側の立場になった今、強く感じています。

卒後25年経ち、母校の宮崎大学に教授として戻ってきた2021年4月に、長年手つかずとなっていた教室の引き出しを整理していたら、なんとそこから、先々代の美原教授が残した新聞切り抜き集が発見され、その中に、1994年5月18日付け朝日新聞朝刊社会面に掲載された「入学後に成績逆転、部活動など加味、選抜組宮崎医科大で学生追跡調査」という記事が出てきました。記事の最後を締めくくる美原教授の「ペーパーテストの1点2点で合格を決めるより、むしろ高校時代の教科外活動を評価して選抜した方が、良い医者になる学生を集められる」と言うコメントに、自分の半生を思い、ユニーク入試で入った私が、ユニーク入試を先導された恩師の講座に教授として戻るという、まさにユニークな運命だと感じました。

20220323_003.jpg写真: 当時の宮崎医科大学弓道場にて

20220323_004.jpg写真:当時は体育館で行われていた宮崎医科大学卒業式にて(1996年)


20220323_005.jpg写真:卒業式以来26年ぶりに体育館前で撮影(2022年3月)

~「人についていきなさい」~

宮崎医科大学を卒業後2年目から、県立宮崎病院の研修医・レジデントとして勤務しました。当時は、休みなどほとんど無い状況で、毎晩のように病棟からの「ポケベル」で呼び出され、ヘトヘトになりながら、しかし、新米医師として充実した日々を送っていました。あまりの寝不足に、ICUのベッドサイドで寝落ちしたり、ストレッチャーに横たわる緊急患者を運びながら「ああ、私も患者になってベッドで眠りたい」というような幻想?が湧いてきたり、研修医仲間と励ましあって心身の限界で働いていたと思います。そんな中、いつしかダイナミックな診断と治療に携わる循環器内科医を志すようになり、なかでも技術的にも学術的にも進歩がめざましかった心エコードプラ法(超音波検査)に興味を持ち、熱心に勉強するようになりました。それを知った当時の上司、循環器内科部長の中川進先生が、後に私の師となる吉田清先生との出会いを作ってくれることになりました。

その後、27歳になる年に、世界トップレベルの環境で勉強したいと思い、吉田清先生のおられた神戸市立中央市民病院に無給医の立場で国内留学する手続きも済ませていたところに、2月のある日、「(岡山県倉敷市にある)川崎医科大学の教授として教室を立ち上げることになったので手伝ってもらえませんか、もちろん予定通り神戸に来られたければ、他の先生に頼んであげますから大丈夫ですよ」と、吉田先生から電話がありました。と言われても、川崎医科大学がどこにあるのかも知りませんし、心エコーを勉強する環境の整った神戸に行くはずでしたので、念のため父に相談してみました。すると、もともと大学の研究者であった父から迷わず「人についていきなさい」と言われ、父の言葉を信じ、思わぬ方角に進路を変更することになりました。

県外に勉強に行きたいという私を、主人は理解し背中を押してくれました。両親や職場の上司、周りの方々にも温かく支えられ、勇気を出して一歩を踏み出すことができました。倉敷に行ってからしばらくは、寂しくて、よく寮の部屋でひとり泣いていました。しかし、川崎医大で多くの仲間に出会い、たくさんのチャンスにも恵まれ、新しい世界が広がる中で大きな経験をすることができました。1年のつもりが2年3年4年と過ぎ、大学の講師となり、国際的な仕事も多くこなしながらがむしゃらに頑張っていましたが、今思えばかなり無茶な生活でした。通常業務のあと深夜12時ごろまで後輩の指導などを優先し、それから夜中の3時、時には4時まで自分の研究や学会活動の仕事をしていました。思い返せば、川崎医科大学での1999年からの10年間は、家族との生活や色んなものを犠牲にしました。何百回も宮崎―倉敷間を往復し、給料は交通費で飛んでいきました。主人とは、宮崎に帰る以外に出張先で会うなど、世間的には変わった夫婦の形ではありましたが、だからこその出会いもあり思い出もできました。倉敷という未知の世界に飛び込んだ私ですが、同僚の先生方や技師さんたちに助けられ、理解ある素晴らしい仲間に恵まれたことが、医師人生の中での大きな財産となりました。

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写真:2003年シカゴでのFACCの授与式。倉敷時代を公私ともに支えてくれた吉田教授夫妻と。

~ ネイティブミヤザキン ~

川崎医科大学において、国際的リーダーである吉田先生の教室の下、たくさんの臨床経験とともに、基礎・臨床研究を通じて多くの実績を残すことができました。また、私が在籍していた循環器内科教室の隣に循環生理学の教室があり、システム生理学の世界的権威であった梶谷文彦教授のチームと連携して研究を進められる環境に合ったことはとても幸運でした。おかげで、世界で初めて臨床での三次元僧帽弁解析を実現し、これは頑張り時だと、歯を食いしばって研究を進め、次々とトップジャーナルに論文を発表することができました。

最初にお話ししたように、私は中学生の時から英語が得意だったのですが、高校1年の担任のスパルタ教育を受けたことで2年生になった頃には英語はかなり出来るようになっていました。そのころは、親と同じ職業を目指すのにちょっとした抵抗を感じていたのもあり、語学の道に進もうか、いや、考古学の勉強もしてみたいな、いや、やっぱりミステリーハンターになりたい!などと考えていました。しかし高校2年の担任の先生に家庭訪問で言われた、「せっかく医師を目指す環境や成績があるんだから・・まあ、今はわからないかもしれないけど、たまには大人の言うことを聞いてみるのも、いいもんだぞ」「医師になってからでも英語の勉強はできるけど、語学に進んでからは医師にはなれないもんな」という言葉をすんなり受け入れて、医学部志望を決めました。ところでこの大宮高校1年の担任だった年見敬子先生は、その後宮崎県のスーパーティーチャーとして活躍され、2年生の担任だった黒木淳一郎先生は、昨年宮崎県教育長に就任され、大学教授として戻った私と、教育者としてのつながりを持つこととなりました。良き師に恵まれて導かれた私の半生。人の縁とは、不思議な力でつながり続けるものですね。

そういうこともあって、ずっと宮崎で育った私でしたが、英語にあまり不自由しなかったことが、国際ジャーナルに投稿する際や海外で発表・講演したり、海外の友人とつながっていく中で大きな力となりました。よく、帰国子女ですか?とか、留学はどちらに?と尋ねられるのですが、いつも私は「いえいえ、私はネイティブミヤザキン」ですと答えています(結構笑ってもらえます)。こんなことを言っていますが、実は全く困らなかった訳ではなく、医学部の6年間と研修医時代はほとんど英語に触れることなく過ごしたので、倉敷に行って急に国際学会で発表をすることになったときは、まず英語の脳に戻すのに少し時間がかかりましたし、学会で講演や発表するときの英語は日常会話と全然違いますので、ビデオやカセットテープを手に入れて、スライドを進めるとき、データを示すとき、そうか、こんな表現をするのか、とせっせとメモしたのを覚えています。英語を母語とする人でも、科学論文の発表前は何度も何度も練習をしていますから、ましてや私たちは、しっかり準備して望まなくてはいけませんよね。実際はギリギリにスライド仕上げて、ぶっつけ本番で駆け抜けることも多かったのですが・・・。2006年にアメリカ心エコー学会で、日本からの研究では初のYoung Investigator's Awardのファイナリストとして演壇に立ちました。巨大スクリーンが3つほど並ぶ大会場で、審査員がずらりと最前列に並ぶ前で発表することとなり、さすがの私も緊張しました。日本人の先生たちが皆で応援に来てくださって、あの場で堂々と英語で質疑する私の姿がとても誇らしかった、でも、望ちゃんでも緊張するんだね!!と、声をかけてくださったのがいい思い出です。先日、宮崎大学医学部生の英語の講座で、英語で私の経験を話しました。英語を身に着けることは、将来の可能性を広げる切符を持つようなものだから、是非頑張って、と話をしました。学生にも伝えましたが、英語圏以外の、アジア地域やヨーロッパの仲間と、第二言語としての英語で交流するのは、また別の喜びがあります。全く違う出自の皆が、それぞれのアクセントで共通語としての英語で分かり合い、つながり合う、国際交流の喜びを感じる場面ですね。

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写真:米国ボルティモアでのAmerican Society of Echocardiographyの年次学術集会でYIA審査会の質疑の様子(2006年)

~ 母校に帰る ~

国際的な仕事が評価され、2003年には、アメリカの先生の推薦で、アメリカ心臓病学会American College of CardiologyのFellow(FACC:特別会員)に選出され、主人も一緒に、シカゴの由緒あるホールで、生演奏の中入場する荘厳な授与式に参加しました。日本人女性初で、最年少だったことはその後に知りましたが、山陽新聞や宮崎日日新聞に取り上げてもらいました。そのころにはアメリカでの仕事も増えてきて、年に5‐6回とんぼ返りでアメリカへ行き、一年先のスケジュールまで埋まるようになっていました。いつかは宮崎に戻ろうと思っていたのですが、きっかけのないまま走り続けているうちに歳月が過ぎ、9年が経過した頃に子どもを授かりました。

この大切な子どもを無事に産み育てることが自分の一番の仕事だと思い、川崎医科大学に籍をおいたまま宮崎に戻り出産に備えました。宮崎に戻ったあとも、メールで大学院生の論文指導は続け、海外の雑誌の査読やテキストの執筆など続けましたが、国内や海外の出張は全て断り、出産と子育てに専念させてもらいました。この時も、吉田清先生の全面的な理解と支援があり、また、同僚たちが多くの仕事を引き受けてくれたために、私は安心して出産に臨むことができました。後輩の女性医師たちは、公私に渡り私を助けてくれました。今思い返しても、なんとありがたいことだったかと、当時の仲間には感謝してもしきれません。

出産後は、娘とべったり過ごしていましたが、縁あって県立宮崎病院に週に一日の非常勤医師として復職し、徐々に勤務日数を増やしながら、手術前後の患者さんの診断など自分の得意なことを現場に活かしつつ、後進を育てるという役割を与えてもらいました。そして、出産から5年後の2014年に、宮崎市郡医師会病院の柴田剛徳先生に声をかけていただき、循環器内科・検査科の部長として復職することになり、そこからはトップギアに切り替えて7年間精いっぱい勤めました。大学人として育った自分の経験を活かし、後輩たちと共に急性期病院から世界に通用する研究を発表することができ、また、国際学会の場にも戻ることを許されました。医師会病院で出会った後輩が、アメリカミネソタ州メイヨ―クリニックの私の仲間のラボに2年間留学するという嬉しい機会もありました。上司や同僚、後輩たち、検査技師さん達、そして病院事務の皆さんに支えられ、皆で同じ方向を向いて走ることの喜びを感じた7年間でした。

2018年からはアメリカ循環器学会AHA: American Heart Associationの公式ジャーナルである'Circulation : Cardiovascular Imaging'のAssociate Editor(編集委員)を務めています。世界中から投稿された学術論文を担当し、査読者の選出、査読結果を受けての論文審査会議と、かなりハードな仕事で責任も大きいですが、インターナショナルな仲間たちとつながって、日夜休みなく働いています。インターネットが普及し、宮崎にいながら世界トップレベルの仕事にリアルタイムで携われる世の中であることを、若い世代にも知ってほしいですね。

医師会病院で多くの経験をしていくうちに、医師人生の折り返し地点を過ぎ、これからは育ててもらった分、後進に返していくときかなと感じていました。そして、世界のトップジャーナルの編集委員として、また学会の役員などの重責も増え、自分の働くべき形についても色々と考え始めていました。そんな時、思いがけないチャンスがあり、2021年に母校である宮崎大学医学部の教授として25年ぶりの大学に戻ることとなりました。大学に戻り、基礎医学と臨床医学をつなげた幅広い研究に携わるとともに、これまでの経験と人脈を活かして大学病院の発展と地元の医療に貢献したいという気持ちで、今、様々な方面で新しいチャレンジを始めています。

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写真:Circulation Cardiovascular ImagingのEditorial Meetingにて(セントルイス)。
普段は週に一回のテレビ会議だが、年に一度は顔を合わせてのミーティングがある。やはり実際合うと、仲間としてのつながりが深まるのを感じる。

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~ 大学病院と地域の人の距離を縮めたい ~

政治や行政などにおいては、縦割りと批判されることがありますが、医療の世界でも以前は外科と内科が連携して治療に当たるケースは少なく、課題の一つでもありました。私は幸運なことに、川崎医大で、若いうちに心臓外科医のチーム医療に携わり、手術サポートなど診断医として訓練されていました。新しい治療の発展と共に、チーム医療の重要性が注目されるようになってきた中、宮崎大学においても、循環器疾患を他職種で複合的にみることで心臓病などから命を守るための「ハートセンター」が2015年に開設され、心臓弁膜症や冠動脈疾患、大動脈疾患などの治療にチームであたる取り組みが進められていました。
そして、私が宮崎大学医学部に着任した2021年度、偶然にも私を含め4名の循環器系教授が宮崎大学に着任することになりました。
心臓血管外科の古川貢之教授、循環器・腎臓内科の海北幸一教授、血管動態生化学の西山功一教授です。既に宮崎大学には、浅田祐士郞教授(病理学)や武谷立教授(薬理学)などの循環器系のエキスパートがおられましたので、まさに基礎医学から臨床医学まで、厚い層の循環器チームが集結するという、願ってもない環境となりました。
ハートセンターでは、この機に、大学病院の強みを活かしながら、県内唯一の大学病院である宮崎大学医学部附属病院と地域の人々の距離をこれまで以上に縮め、また開業医や地域を支える病院との連携も深め、宮崎県の最後の砦としての役割を果たしていきたいと思っています。私自身にできる事のひとつとして、大学病院内での働きとは別に、市内中心部のクリニックで心臓弁膜症の専門外来を開設しました。また、2014年からは川崎医科大学時代に吉田清先生と10年近く続けていた「実地医家のための心エコー図勉強会」を宮崎でも継続し、先日15回目を開催しました。心臓専門以外の実地医家の先生方や検査技師さんに、心エコーの基本手技と知識を、ハンズオン講習を通じて分かち合い、地域連携の繋がりを深め、心疾患の早期発見早期治療に結び付けることが狙いです。敷居の高い基幹病院で座って待っているのではなく、専門知識と技術を持ったスペシャリストとして、実地医家の場に身を置くことで、地域との風通しを良くすることが出来ると思っています。それが、地域医療への貢献であり、ひいては宮崎大学医学部の発展につながり、宮崎県の医療の発展につながっていくと信じ、小さな体ですが、精いっぱい頑張って日々過ごしています。

20220323_009.jpg写真:実地医家のための心エコー図勉強会の風景(2014年第一回)。
クリニックや病院の、循環器専門以外の医師や、各病院の検査技師を対象にしたハンズオン講習で実地医家とのつながりを深めてきた。

20220323_010.jpg写真:令和3年春に宮崎大学医学部に就任した4人の循環器系教授
左から 西山功一教授、古川貢之教授、渡邉望教授、海北幸一教授

~ 分野の垣根を越えた強力なチームを結成 ~

大学病院の強みは、全ての診療科が揃っている総合病院としての幅広さに加え、解剖学や生理学などの基礎医学講座の研究者も揃い、医学部としての層の厚さを持っていることだと思います。安全に最先端医療を提供するためには、基礎研究の裏付けが必用であり、この層の厚さこそ大学の強みなんだと言うことを改めて実感しています。私は今、循環動態生理学分野の教授として教室を運営しながら、大学病院のハートチームの一員として、主に専門領域である心臓超音波を用いた診断や手術のサポートに携わっています。循環器内科・心臓血管外科を中心としたこの宮崎大学の循環器チームの布陣は、他大学からも注目されています。
ハートセンターでは、患者さんの治療方針などについて定期的にカンファレンスを開き、分野の垣根を越えて議論することで、一人一人の患者さんにとっての最善の医療を提供できるように取り組んでいます。また、患者を最初に診ることになる地域の医師との連携を深める定期的な勉強会を積極的に主催しています。各消防の救急隊員との直通電話「ハートコール」を整備し、さらに救急車内で記録した心電図を専門の医師のスマートフォンに直接送信することで、医師が緊急性を即座に判断できる心電図伝送システムも導入しました。この心電図伝送システムによる搬送は昨年来どんどん増えてきており、それに伴い循環器内科・心臓血管外科の救急患者受け入れも増加しています。今後は人員確保し、さらなる基盤形成に努めていかなくてはというところです。

心電図伝送システムの事に触れましたが、実際には心電図解析は非常に難しい側面があり、その日その時はまるで異常がない場合でも、一晩で急変することがあります。地域を支えているクリニックや病院の医師が、大学病院に紹介するのを躊躇しなくていいように、大学病院ハートセンターでは、「少しでも疑わしいと思われたら、すぐに紹介してください、結果異常なしであれば安心と共にお返しします」とのスタンスで、心臓病から命を守る宮崎県の「最後の砦」の役割を果たそうと考えています。

宮崎市内で心臓外科手術ができるのは、宮崎大学病院のほかに、県立宮崎病院と宮崎市郡医師会病院です。この3病院はすべて宮崎大学心臓血管外科所属外科医のチームでありますので病院間の強固なネットワークがあることも強みだと考えています。「宮崎の医療は宮崎で守る」というのが、ハートセンター長である心臓血管外科古川教授の強い想いであり、循環器内科の海北教授と共に体制の整備に精力を傾けておられます。まずは大学病院内で強力なチームを作り上げ、県内の他の病院に波及させることで、宮崎県民の日常に安心を届けることができるようにしたいと思っています。同時にこれらの取り組みや研究成果なども宮崎から全国に、世界に向かって積極的に発信していきたいと思っています。

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写真:分野を超えた定例ミーティングの様子(2022年)

■研究者データベース(渡邉 望)‥https://srhumdb.miyazaki-u.ac.jp/html/100001602_ja.html



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